都内の静かな住宅街にある、築浅の賃貸マンションに住む佐藤さんは、その日、人生で初めての「絶体絶命の危機」に直面していました。夕食を終え、ゆったりとした時間を過ごしていた時のことです。何気なくトイレを利用し、いつものように洗浄レバーを回しました。ところが、水は勢いよく渦を巻く代わりに、どんよりとした不気味な動きを見せ、水位がじわじわと上昇し始めたのです。佐藤さんの頭の中に、真っ白な霧が立ち込めました。水は便器の縁からあと数ミリというところで辛うじて止まりましたが、それはまさに嵐の前の静けさのような、危うい均衡でした。佐藤さんは、これまで大きなトラブルもなくこのマンションで過ごしてきました。管理体制もしっかりしており、困ったことがあれば管理会社に言えばいいと思っていました。しかし、時計の針はすでに午後十時を回っています。管理会社のオフィスは閉まっており、担当者に直接連絡を取ることはできません。自力でなんとかしようと、キッチンの隅に置いてあった割り箸を持ってきて、おそるおそる中を覗き込みましたが、原因となるようなものは何も見えませんでした。スマホで検索すると「ラバーカップを使え」という文字が並びますが、あいにくそんな無骨な道具をこのおしゃれなトイレに備えてはいませんでした。このまま朝まで放置するか、それともネットで見つけた「二十四時間対応、最短十分で駆けつけます」という業者に電話するか。佐藤さんは激しい葛藤に襲われました。業者のサイトを見ると、基本料金は「九百八十円から」と安く書かれていますが、SNSでの評判を調べると、後から高額な請求をされたという書き込みが散見されます。一方で、もし放置している間に何かの拍子で水が溢れ出し、下の階の住人とトラブルになったらどうしようという不安が胸を締め付けます。賃貸物件に住む者として、この部屋の状態を正常に保つ責任が自分にはある。そう考えた時、佐藤さんはふと、入居時に渡されたファイルの存在を思い出しました。重い足取りで棚からファイルを取り出し、中をめくると、そこには「夜間・休日緊急連絡先」という一枚の紙が入っていました。さらに、入居者専用の火災保険のパンフレットも添えられており、そこには「水回りサポート無料」の文字が誇らしげに記されていました。佐藤さんは一縷の望みをかけて、その緊急連絡先に電話をかけました。オペレーターの落ち着いた声が聞こえた瞬間、佐藤さんはようやく深く息を吐き出すことができました。状況を説明すると、提携業者が一時間以内に到着すること、そして保険の範囲内であれば基本作業は無料であることを丁寧に説明してくれました。到着した作業員は、手際よく専用の道具を使って詰まりを解消してくれました。
集合住宅でトイレ詰まりに遭遇したある住人の決断